はじめに
第1章 障害学に向けて—–長瀬修
第2章 障害、テクノロジー、アイデンティティ—–石川准
第3章 自己決定する自立◇◇なにより、でないが、とても、大切なもの—–立岩真也
第4章 「障害」と出生前診断—–玉井真理子
第5章 優生思想の系譜—–市野川容孝
第6章 ろう文化と障害、障害者—–森壮也
第7章 聾教育における「障害」の構築—–金澤貴之
第8章 異形のパラドックス◇◇青い芝・ドッグレッグス・劇団態変—–倉本智明
第9章 歴史は創られる—–花田春兆
第10章 障害学から見た精神障害◇◇精神障害の社会学—–山田富秋
あとがき
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はじめに
「障害学」って何だろうと思いながら、本書を手にとってくださる読者も多いにちがいない。障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)とは簡単に言えば、障害、障害者を社会、文化の視点から考え直し、従来の医療、リハビリテーション、社会福祉、特殊教育といった「枠」から障害、障害者を解放する試みである。本書は、障害学を構成すべき内容を盛り込み、読者に、障害学の一端に触れて頂くことを目指している。
本書のラインアップは、編者の石川准と私が「この書き手で、このテーマを」という視点で選んだものである。本来ならば、障害学を構成すべき体系をまず組み立ててから、本の構成にあたるべきところだろうが、その手法はとっていないことを申し上げたい。私ども編者が描いた「障害学」という枠の中で、「この人にこのテーマを深めてほしい」という形で、本の組み立てを行った。しかし、目次から読みとって頂けるように、障害学を構成すべき大きなテーマはそれなりに網羅できたのではないかと自負している。とは言え、落ちているテーマを数え上げれば際限がない。ただジェンダー、障害女性については非常に重要と考え、実際に原稿依頼を行い、引き受けてもらえたが、筆者の方の都合で結局、原稿は頂けなかった経緯があることを申し添えたい。また、現在の議論の中で「ろう文化」の占める位 置の重要性から、もう一本、ろう文化関係の原稿を掲載予定だったが、実現しなかったことを付言する。
漠然と日本でも「障害学を」(『福祉労働』六九号、一九九五年一二月)と考えてはいたものの、本書として具体化したのは、九六年一二月に東京で開かれた「第八回障害者自立生活研究会」(全国自立生活センター協議会、東京都自立生活センター協議会主催)の同じ分科会で発表した石川准と出会い、駅への帰り道のハンバーガー屋で話しこんだことが契機だった。東アフリカのスワヒリ語に「山と山は出会わないが、人と人は出会う」ということわざがある。メディアが発達している現代だが、人と人が会うことの大切さは変わらないのかもしれない。
九四年の暮れぐらいから「障害学」というアプローチに魅せられてきたが、本書の刊行で一つの小さな、しかし大切な区切りがつけられるのが嬉しい。日本における「障害学」を意識した取り組みは始まったばかりである。「障害学」を掲げる本書が、障害、障害者を、ひいては私たちの社会、文化を考え直すきっかけとなれば誠に幸いである。また、本書を読まれた障害、非障害の方が、障害学に魅力を感じ、障害学の担い手になって頂ければ、これに優る喜びはない。
明石書店で当初、編集を担当していた鈴木正美さんには、本書の企画を立ち上げる際に、大変お世話になった。お礼を申し上げる。また、本書のテキストファイル版の提供にあたっては、明石書店の樺山美保さんにお骨折り頂いた。記して感謝したい。
読者のみなさんからの様々な感想、厳しい批判を心から楽しみにしている。
長瀬 修
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あとがき
本書は「障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動」(本書第一章)の我々なりの一つのささやかな試みであった。障害者福祉やリハビリテーションの教科書などに触れたことのある読者なら、そしてそれらを熱心に学んだ読者であればなおのこと、たとえ我々の議論のすべてが伝わらなかったとしても、本書が、これまでの障害者福祉、障害者リハビリテーション、あるいは障害者教育の大方の書物とは障害に対する基本的な考え方を異にしていることだけは感じとってもらえたと思う。それにしても今改めて通読してみると「障害学への招待」と言いつつ、我々は客に対していささか無愛想だったようにも思う。言いたいことを言うのに一生懸命なあまり、もてなしが足りなかったのではあるまいか。だとすればそれはとりわけ編者の責任である。読者が本書を通読してなお納得できないでいるかもしれない疑問のいくらかに私なりに答えることで本書のあとがきに替えたいと思う。
さて、読者を一番悩ませたのは、やはり「障害の文化」という見方だろう。そして、障害学を標榜する本書は障害者の人権や統合をどのように考えているのかということだろう。医療リハビリテーション・モデルなどといわなくとも、訓練と道具による障害の克服は、努力と苦痛と犠牲をいくら支払っても追求する価値のあることだとする見方は、我々が暮らすこの社会=文化が不断に再生産する圧倒的に強固な考えである。
障害と障害者を非人格化し、なりふり構わず排除しようとする社会の差別性や敵意を伝統的で非合理的で非人間主義的なこととして廃絶するには、障害は機能的差異にすぎないという見方を確立すべきであり、そのためにも社会は機能的差異にのみ関心を向け、その縮小や克服のためになすべきことをするのだ、という考えからすれば、差異をことさら増幅しようとする「障害の文化」は逆を向いていると感じられても不思議はない。障害者福祉、リハビリテーション、医療、教育、バリア・フリーといったことに関わっている人ほどそうした思いに捕われるかもしれない。
たしかに、障害とは、見えない、聞こえない、身体が動かない、頭が動かない、というように、特定の機能が機能しないあるいは「正常」な状態から見て不十分にしか機能しないということが固定した状態のことであり、状況しだいで、しかし多くの状況で、行為遂行を困難にするものであるという単にそれだけのことであるから、障害や障害を持つ者への否定的な差異化はいうまでもなく、肯定的な価値付けであっても、それ以上の過剰な意味付与には根拠はない、というのは、排除カテゴリとして外化され差別 されてきた「障害者」を統合(あるいは再統合)するために近代主義がたてた平等へのシナリオである。あるいは、そうであるといわれてきた。
けれども、障害者の排除・差別は非合理的なもの、宗教的、呪術的なものなのだろうか。ほんとうに合理主義の外部にあるものなのだろうか。機能と能力によって人を執拗に分類し、人の価値に細かく等級を付ける近代こそ、障害者カテゴリーを構築し障害者を排除し処遇する張本人なのではないのだろうか。能力次元への射影による差異の縮小は、能力主義の徹底を意味するのだとは考えられないだろうか。もしそうなら、障害の文化を豊かにしていくことによってこそ、差異に意味を与え返す営みによってこそ障害ある人々の生は輝くと考えられないだろうか。
本書のなかでこの立場をもっとも鮮明にしたのは倉本智明である。彼は、障害者が社会のさまざまな領域での活動に参加することを阻む社会的障壁(barrier)を除去したとしても、障害者の「身体」は残るのだから、障害者/健常者という差異は消滅しないと述べ、障害者の身体を前提とするとき、我々は我々にしかない独自なものにめざめ、そこを出発点としなければならない、と書いた。
障害の文化は、西洋知識人のオリエンタリズムや現地知識人へのその投影のようなものではない。私が本書のなかで障害の文化と克服努力とを同じ平面において論じたのは、図式的な言い方にはなっても、障害者の生の全体性を過不足なく指し示したかったからである。陳腐な表現かもしれないが、人はよりよく生きるために、方法を考えるとともに、意味を与える。障害者もそのようにして暮らしている。その全体性があえて言うなら「障害の文化」である。だから、克服のための方法や技術を編み出していくこともれっきとした「障害の文化」である。少なくとも私はそう考える。文化とはそもそも環境への動的な適応なのだから。
ところで、このような議論とはほぼ無関係に、障害者の一方的な克服努力だけを要求する社会のあり方を自己反省し、より多くの人々が有能でいられる社会の実現のための共生のインターフェイス作りを目指す思想が社会に登場してきている。バリア・フリー、ユニバーサル・デザイン、アクセシビリティなどと呼ばれる一連の実践的な理念である。だが、この一見すれば望ましいとしか思えない理念に対しても、障害者運動の一部(差異派)には、能力主義の現代的展開、拡張と見て警戒する議論がある。つまり、バリア・フリー社会とは、実はできないまま社会に参加することにいっそう不寛容な社会なのではないかという批判である。たしかに、できるようにする技術(enabling technology)を媒介して障害者と健常者が共に生きる社会とは、障害者の生身の身体をいっそう受け入れない社会になりかねない危険をはらんでもいる。
だが、この洞察はいささか楽観的でありまた杞憂でもあるという意味において半分しか正しくない。そもそもこの社会はいまだバリア・フリーを基本理念として合意してはいない。だれもが有能でいられる社会を作ろうとする情熱はサブカルチャーでしかない。こうしたサブカルチャーは、障害者運動全体のなかでは後方に位置するとされてきた人々、乱暴な言い方をすればとりわけ視覚障害者と難聴者および彼らと関わる晴眼者、聴者、ヒューマン・インターフェイスのあり方に関心を寄せる技術者、建築家、研究者などによって強く支持されているにすぎない。視覚障害者はコンピュータと電子ネットワークへのアクセスの分野では、GUIアクセスの問題の解決に強い関心を抱いているし、また当事者自身が必要なソフトウエア、ハードウエア開発に積極的に関わっている。一方、長期にわたってテレビなどの放送メディアから疎外されてきた聴覚障害者は、字幕放送の保障を求めてねばり強い運動を行なっている。
こうしたバリア・フリー社会の内実を吟味し、見過ごされている問題を指摘し、あまりにも多様で、それでいてほとんど同質な我々の身体と生を互いに認め合い、敬愛し合って暮らしていける社会のための創造的な提案を行なうことも障害学の仕事である。
なお、長瀬修も書いているが、我々は「障害学研究ネットワーク」というメーリングリストを運営している。そこには障害学に関心のある各方面の研究者、技術者、当事者、さらには学生が参加し、かなり活況を呈している。メーリングリストの主題と目的(といってもゆるやかなものではあるが)に同意する人ならだれでも参加できる。参加を希望する人はhttp://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~ishikawa/index.htmを訪れて参加方法のページを読んでいただきたい。
最後になったが、本書の企画は一昨年のJIL(全国障害者自立生活センター協議会)の全国シンポジウムで長瀬さんと石川がはじめて会ったことに端を発する。当初の予定では今春には出版するつもりでいたが、編者の怠慢からここまで遅れてしまった。締め切りを厳守し、ずっと待ってくれていた金澤貴之さん、花田春兆さん、玉井真理子さんにはとくに申し訳なく思っている。
またこの企画を編集者として担当された明石書店の高橋淳さんと鈴木正美さんには、遅々として進まない我々の作業に辛抱強くつきあっていただき感謝している。
一九九八年一〇月二五日 石川 准