ルース・ラッセルとフランシス・ラッセルに捧ぐ
まえがき
謝辞
第 I 部 私的生活
第1章 管理される心の探究
第2章 手がかりとしての感情
第3章 感情を管理する
第4章 感情規則
第5章 感情による敬意表明│贈り物の交換
第 II 部 公的生活
第6章 感情管理│私的な利用から商業的利用へ
第7章 両極の間で│職業と感情労働
第8章 ジェンダー、地位、感情
第9章 本来性の探究
付録
A 感情モデル│ダーウィンからゴフマンまで
B 感情の命名法
C 仕事と感情労働
D 地位と個人に関するコントロールシステム
注
訳者あとがき
参考文献
索引
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まえがき
私が、人はどのように感情を管理するのか、ということに関心を持ち始めたのは、両親がアメリカ国務省の海外勤務に就いたころだったと思う。一二歳で私は、大勢のゲストの間に入ってピーナッツの皿を手渡し、彼らの笑顔を見上げていた。外交上の笑顔というのは、下から見上げると、真正面から見たときとは違って見えるものである。その後に、私はよく、両親がいろいろなジェスチャーについて解説するのを聞いたものだった。そしてブルガリア使節団のひきつった笑顔や、中国の領事が一瞬そらした視線、フランスの経済担当官の長い握手の中には、単に個人から個人へだけではなく、ソフィアからワシントンへ、北京からパリへ、パリからワシントンへのメッセージが含まれている、ということを知った。私は、ある個人にピーナッツをわたしていたのだろうか、それとも、役者にわたしていたのだろうか? どこで個人の部分が終わって役者の部分が始まるのだろうか?そもそも、人と演技とはどのような関係にあるのだろうか?
それから何年かたち、バークレーの大学院生のときに、C・ライト・ミルズの著書、特に『ホワイトカラー』の中の「偉大なる営業部」という章に好奇心をかきたてられたのだが、今思えば、ずっと持ち続けていたそのような疑問に対する答えを探しながら、私は何度もそれを読み返していたのだった。ミルズの議論によれば、私たちは、物やサービスを売るという行為の過程で「自分の人格を売りに出す」ことになり、そのため自己から深く疎隔されるプロセスに関与することになるが、それは、発達した資本主義システムにおける労働者の間ではますます一般的になる。このことは真実らしい響きを持っていたが、しかし何かが見落とされていた。ミルズは、人格を売るためには、人はそれを持ってさえいればよい、と仮定していたようだった。しかし、筋肉があるからといって陸上競技の選手になれるとは限らないように、単に人格を持っていることで人が外交官になれるわけではない。見落とされていたのは、売ることの中に含まれる、積極的な感情労働の意味であった。この労働は、明確にパターン化された、しかし目には見えない感情システム―「感情作業」、社会的な「感情規則」、そして、人々の私的または公的な生活の中で行われる様々な種類の交換、といった個々の行為によって構成されたシステム―の一部ではないか、と思われた。私は、外交官がそのうちの一つの方言を話していたにすぎない、感情の言語全体を理解したかったのである。
私の追究は、間もなくアーヴィング・ゴフマンの研究へとたどり着いた。私たちが、自分は他者にとってどのように見えるべきか、という規則に無意識のうちに従っているときでさえ、どのようにして自分の外見をコントロールしようと努力しているのか、ということに関する彼の熱心な洞察に、私は多くを負っている。しかしここでもまた、何かが見落とされていた。人はどのようにして感情に働きかけるのか―あるいは、働きかけるのをやめたり、感じることをやめたりもするのか? 私は、私たちが働きかけている対象とは何なのか、を明らかにしたかった。そして、自己からのメッセンジャーとしての感情の働き、私たちに、自分が目にしているものと目にするだろうと期待していたものとの関係性について瞬時に報告し、それに対して自分は何をする準備があると感じているのかを教えてくれるエージェントとしての感情の働き、という概念を探究することに決めた。専門家のために付録Aで解説しているように、フロイトが不安の感情のみに当てはめた「シグナル機能」を、私はあらゆる感情にまで拡大している。多くの感情は、私たちが何らかのニュースや出来事に積極的に応じるときの、隠された望みや恐れ、期待を合図している。個人的な感情管理が社会的に設計され、賃金を得るための感情労働へと変形されていくときに損なわれるのは、このシグナル機能である。
その後、客室乗務員や集金人、女性労働者や男性労働者が一日の労働をこなしているときの心のうちを読み取ろうとして調査に出かけていったときに、こうした問いや概念が発展していった。話を聞けば聞くほど、労働者がどのようにして、労働に関する感情規則の裏をかき、自己の感覚を保護しているか、そして、いかにして「適切な」感情の表層的表示に限定して感情を差し出しているのか、にもかかわらず、いかに「間違っている」、あるいはおざなりだ、という感覚に悩まされているのか、を十分に意識するようになった。また、商業的なシステムが、個人的な感情の「贈与交換」を削り取れば取るほど、贈与交換の受け取り手と贈り手は一様に、非個人的でないものを信じようとして、非個人的なものの値打ちを引き下げるという追加作業を始める、ということもわかるようになった。これらのことはすべて、今、私が自分の目の高さで目にしている笑顔の数々を解釈するのに役立っている。
A・R・H
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謝辞
私を手助けしてくれた人々に心からお礼を申し上げたい。漠然とした状態の下書きに対して、心をひきしめるような、しかし愛情のこもったアドバイスをくれたジェフリー・クラインとジュディ・クライン、私につきあってアイディアを広げてくれたトッド・ギトリンに感謝する。アンナ・マッカンは私を支え、驚くほど丁寧に一行一行赤ペンで直してくれた。そして、個人的な交友関係と知的な生活とを何年にもわたって快適に編んでいく喜びを教えてくれたアン・スウィドラーに感謝する。マイク・ローギンは何年間も私の考えを精査し、不必要な部分を取り除いてくれた。こぼしたレモネードを拭き取ったり、動物園で子どもたちの靴ひもを結んだりしている間さえも。かつての師であり古くからの友人であるニール・スメルサーには、初期稿に対し二〇ページに及ぶとても役に立つコメントをいただいた。ラスティ・シモンズは鋭い助言をくれた。ねばり強く議論を追い、意地悪なあら探し屋を引き受けてくれたメッタ・スペンサーの技術に感謝したい。さらに初期の調査を手伝ってくれたジョアン・コステロとジェズラ・ケーン、そしてその後の調査を手伝ってくれたスティーヴ・ヘツラーとレイチェル・ヴォルバーグにもお礼を言いたい。注意深くタイプ作業をしてくれたパット・ファブリジオ、フランシスコ・メディーナ、サミー・リーにも感謝している。
兄のポール・ラッセルは、感情についてあれこれと多くのことを教えてくれた。私は彼の優しさと深くて知的な仕事を大切に思っている。同じ家庭で育った二人が、ともに感情というものに関心を抱き、かくも違うことを言うのにはいつも驚いている。しかし私は、彼の考えから非常にたくさんのことを学んだ。そのうちのいくつかは参考文献に載せた彼の論文の中に見つけることができるだろう。また、アーロン・シックレルとリリアン・ルービンにも感謝する。彼らは終わったと思っていたのに実は終わっていなかった校正を根気よくがんばってくれた。ジーン・タンケには何と言えば足りるだろうか。彼の編集はすばらしいものだった。唯一残念に思うのは、もろもろの観察所見に対して彼が提案してくれた補足的な付録と「ちょっとしっくりこない」という彼のコメントを載せられなかったことである。
多くの客室乗務員や集金人には、時間を割いて経験を話してもらったり、会議に参加させてもらったり、自宅におじゃまさせてもらったりと、ほんとうにお世話になった。デルタ航空の担当の方々にもお礼を申し上げたい。彼らは私の善意を信用して自分たちの世界に私を入れてくれた。特にデルタ航空スチュワーデス訓練センター所長であるメアリー・ルース・ラルフには感謝している。彼女が私が書いたことのすべてに同意するということはないであろうが、この本は彼女と彼女が教育している人々に敬意を表して書かれたものである。ベッツィー・グラハムにもまた、深夜まで及んだテープ録音への協力や、友人のネットワークを広げてもらったことに心から感謝している。ノートや思い出の品の入った三つの箱は、まだ私のクローゼットの床を飾っている。
私がここまでやってこられたのは、ほとんど夫アダムのおかげである。彼は、会社が職員に見せるために張り出している標語を見るために、いっしょに航空会社のチケットカウンターの後ろに回ってくれた。また私の話にいつも耳を傾け、そのときどきの下書き原稿にも目を通してくれた。彼のコメントの中で私が気に入ったのは、初期稿の「突出した曖昧性を包む覆い〔埋葬布〕」というフレーズの脇の余白に彼が書いた絵である。その絵は幽霊(曖昧性)のいるわらの丘(突出)を自由に往来する小さな人物を描いたもので、その人物には「突出屋さん(salientee)」という名前がつけられていた。そのフレーズ自体はなくなってしまったが、そのページを旅する「突出屋さん」のイメージと、彼の愛情や笑い声は今でも私とともにある。一一歳の息子デイヴィッドもまたタイプライター原稿のほとんどを読み、いくつもの長ったらしい単語に付箋を付けて「ごめんね、ママ。僕は火星の言葉は話せないんだ」というコメントをくれた。私は彼らを心から愛している。二人にほんとうにありがとうと言いたい。そして次に書くときに助けになってくれるだろうガブリエルにも。
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訳者あとがき
本訳書はArlie Russell Hochschild, The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling, University of California Press, 1983 の全訳である。
著者アーリー・ホックシールド(一九四〇年生まれ)はカリフォルニア大学で博士号を取得し、永年に渡り同大学バークレー校社会学部教授を務めている。現在は、一九九八年に新設された同大「勤労家族センター(Center for Working Families)」の副所長も兼務している。ホックシールドは「感情社会学」という新しい分野を切り開いた理論家であるとともに、女性の就労をとりまく種々の社会問題への実践的な取り組みを行ってきた実践家でもある。
ホックシールドには、本書の他にも The Time Bind: When Work Becomes Home and Home Becomes Work や The Second Shift: Working Parents and the Revolution at Home(田中和子訳『セカンド・シフト 第二の勤務―アメリカ 共働き革命のいま』朝日新聞社、一九九〇年)等、好著が多数あるが、彼女の代表作はなんといっても本書であろう。
本書は、「感情社会学(sociology of emotion)」の事実上の宣言書であり、その後の社会学における感情研究を大きく方向づけてきた作品である。ホックシールドは、一九世紀の工場労働者は「肉体」を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は「心」を酷使されている、という印象的な対比から本書を書き始める。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特にサービス・セクターや対人的職業の労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえない。それは人の自我を蝕み、傷つける。しかも、そうした「感情労働」を担わされるのは主として女性であるという。
ホックシールドが特に関心を寄せるのは公的な場所、労働の現場における感情管理である。それは、職務が要求する適切な感情状態や感情表現を作り出すために規範的になされる感情管理、つまり「感情労働」である。感情労働は賃金と引き替えに売られ、交換価値を有する。現代社会は、感情の商品化、すなわち感情の売買を組織的に、広範に推し進める社会であるという意味では過去に類をみない社会である。だが、感情の商品化は資本主義社会の進展とともに徐々に高度化してきた歴史的過程である。にもかかわらず、感情労働という視点の本格的な理論化は、ホックシールドを待たなければならなかった。感情の活用とその隠蔽あるいは忘却の背景には、感情労働の起源が家庭にあり、女性の本来性とみなされ、女性を「感情の容器」と決めつける神話が近代以降に構築され、それが感情労働という認識を妨げる先入観として機能してきたという事情がある。
社会が、感情労働を主に女性というジェンダーに担わせているのは、女性に「感情的な生き物」となるべく「感情教育」を執拗に与えてきた長い歴史があり、その結果男性より高い感情管理能力を有するようになった(と信じられた)からだが、もちろんそればかりでなく、感情労働は、「感情教育」の実習の現場であり、同時に女性には労働より感情がふさわしいとする社会の家父長的ジェンダー規範の正当性の証明という「感情政治」の実行の現場でもあると考えられる。
人が日常的な文脈で行う感情管理は、自らが準拠する感情規則への自発的な同調である。たとえ人、いや女性や男性を、感じる主体へと規律化する権力が働いているとしても、ひとまずは自分のための感情管理である。だが、感情労働は職業的に要請されるタスクである。公的な場における他者との相互作用を、私的な交わりとして体験し表現するという労働である。
ホックシールドに代表される感情研究の特徴を端的に述べるなら、それは、感情経験を構築する社会的実践の研究、すなわち「構築主義」感情社会学であるということができる。この立場からすると、感情とは社会的文化的に構築されるものであり、したがって制度の外側にある自然なもの、本来的なものなどではなく、制度そのものだということになる。逸脱的とされた感情は社会的・主体的統制を受けて同調的とみなされるものへと改められる。適切な感情が創出され不適切な感情は消去される。このような社会的主体的統制が「感情管理」である。
なお、本書は、今日風にいえば感情の脱構築というラディカリティを含む作品であるにもかかわらず、語り口の平明さと、記述の深さを兼ね備えた作品であり、その意味でも貴重である。
とはいえ、私たちにとって訳出作業はそう平坦な道のりではなかった。原書の記述を極力保存しつつ、日本語としての可読性を保証する、という責任を引き受けるのが学術書の翻訳作業であることを改めて痛感した。原書のなかに見つかった書誌情報等の誤りは訳者の判断で訂正した。また、著者の真意が必ずしも明確でないと感じたところは直接著者に問い合わせることも含め、私たちなりに可能な限り最大の努力を払ったつもりだが、それでも誤訳や曖昧さは残っているだろう。読者に伝わらない文章があればそれは私たちの実力不足が原因である。
日本でも近年「感情社会学」を名乗る作品がいくつか発表されている。実はそれらは、ほぼ例外なく、ホックシールドの研究、とりわけこの The Managed Heart から多くを得ている。感情社会学が立ち上がりつつあるちょうどそのときに、本訳書を送り出すことができるのは、訳者にとっては幸運なことであった。感情社会学のバイブルともいうべき本書が、研究者のみならず、広い範囲の読者が感情社会学を知り、そこから何かを学ぶ手助けとなればと願っている。
最後になったが、本訳書が世に出るまでにはたくさんの方の協力があったことも記しておきたい。本訳書の編集者である世界思想社の中川大一さんは、ドラフトを読み、数多くの有益なコメントをくださった。また、和泉真澄さん、大浦満寿美さん、俣野容子さんは誤訳の指摘を含め、実に丹念な校閲をしてくださった。訳者サイドの編集作業では、高橋玲子さん、東城理香さん、山本佐智子さんの助力をいただいた。
一九九九年九月 初秋の静岡にて
石川 准
室伏亜希